2023年10月23日 公開

飼い主の“もしも”のときに愛犬を救う『いぬヘルプ手帳』を考案したオキエイコさん
もしも今日事故に遭ってしまったら。もしも突然倒れてしまったら――
不測の事態が起きたときに、私たちは家で待つ愛犬を守ることができるでしょうか?
仮に誰かが代わりにお世話をしてくれたとしても、いつもの生活が大きく変われば辛い思いをさせてしまいます。何日も発見されなければ、命も落としかねません。
そんな悲しい事態が起きぬよう、飼い主の“もしも”のときに愛犬を守ってくれるのが『いぬヘルプ手帳』です。
表紙には、犬を飼っていることを伝えるメッセージ。ページをめくると緊急連絡先や、かかりつけ動物病院の連絡先、犬のプロフィールなど、引き継ぎに必要とする情報が全て書けるようになっています。
『いぬヘルプ手帳』は、『もしもヘルプ手帳』シリーズの一作。ほかにも『ねこヘルプ手帳』や、エキゾチックアニマル用の『どうぶつヘルプ手帳』があります。

考案者は、株式会社nancoco代表のオキエイコさん。2匹の愛猫と暮らしており、猫をモデルにした作品を手がけるイラストレーター「オキエイコ」としても活躍中です。

「ペットと一緒に暮らすときの意識を変えていきたい」と話すオキさんは、どのような想いを『いぬヘルプ手帳』に込めているのでしょうか。制作背景や『いぬヘルプ手帳』を通して実現したい理想について伺いました。
“もしも”のときにペットの命を救いたい。我が子の母子手帳がヒントに
「自分が事故や病気など“もしも”のことがあったとき、家の猫を放置死させてしまうと思うと恐ろしい」
『もしもヘルプ手帳』誕生のきっかけは、猫を飼う一人暮らしの友人から相談を受けたことでした。猫を飼ってはいたものの、家族と暮らしていたオキさんは、その時初めて「自分の健康状態がペットの命のリスクにつながる」と気づいたそうです。
友人からの相談を受けてオキさんが最初に作ったのは、“もしも”のときに家でペットが待っていることを周知できるスマホ用の待ち受け画像。SNSで画像を無料配布すると約2.8万リツイート(当時)され、大反響を呼びました。

その後、双子を妊娠したオキさん。母子手帳に子どもの成長を記録している時、さらなる考えが浮かびます。
「うちの猫たちにも母子手帳があったらいいなと思ったんです。猫にもワクチンの接種日や検査結果などの情報がすべてまとまっているツールがあれば、“もしも”のときに便利ですし、猫を飼っているという意思表示にもなります」
オキさんは、猫の母子手帳をSNSで提案。多くの猫の飼い主から切望の声が届き『もしもヘルプ手帳』シリーズ第一弾となる『ねこヘルプ手帳』を作ることになったのです。
オキさんはSNSで、猫を引き継ぐ際に必要な情報についてアンケートを繰り返し、集まった意見を手帳に反映させていきました。約3ヶ月の制作期間を経て制作された『ねこヘルプ手帳』は、2022年7月に販売がスタート。人気はSNSで瞬く間に広まり、企画・制作・販売を個人で行っているにもかかわらず、発売日から約1ヶ月で2500部を記録しました。

この人気は愛猫家の間だけにとどまりませんでした。『ねこヘルプ手帳』の制作中、多くの犬の飼い主から「犬バージョンも作ってほしい」という声があったのです。しかし、犬を飼ったことがないオキさん。犬に関する知識がなかったため「私なんかが作るのはおこがましい」と最初は作ることに抵抗がありました。
そんななか背中を押してくれたのは、『ねこヘルプ手帳』を知りオキさんのSNSに集まってきてくれた犬の飼い主たちでした。
「『個人の声を聞いてくれるオキさんだからこそ作ってほしい』『私たちが犬のことを教えてあげるから大丈夫!』と嬉しい言葉をいただいたんです。家族であるペットを守りたいという気持ちは猫も犬も変わらないと思い、『いぬヘルプ手帳』を作ることを決めました」
SNSで犬の飼い主の声を集めて作られた手帳は、飼い主からの“愛”そのもの
こうして『いぬヘルプ手帳』を作ることになったオキさん。犬ならではの項目を作るべく、SNSで「犬と猫の違い」についての質問を繰り返していきました。

「ワンちゃんと暮らしたことがなかったので、多くの方に質問をするよう心がけました。最初は「散歩は1日1回じゃないの?」という初歩的なところもわかりませんでしたから(笑)飼い主さんには一から親切に教えてもらって、本当に感謝しています」
飼い主からの意見を集めてみると、犬種や形、大きさ、飼われる場所、しつけ、散歩の仕方など、猫と比べ犬には個体差が多いことがわかりました。
「必要としている人がいる限り多くの情報を入れ込みたい」オキさんはそんな心意気で飼い主からの意見を手帳に反映させていきました。

『いぬヘルプ手帳』と『ねこヘルプ手帳』の大きな違いは、『いぬヘルプ手帳』には「コマンド熟練度リスト」があることです。コマンドとは、お手やおかわりなどの合図のこと。コマンドの種類だけでなく、我が家での言い方、誰に対して応えられるかなど、細かく記入できるようになっています。

この「コマンド熟練度リスト」ができるまで、SNS上では飼い主からさまざまな意見が寄せられました。
「どのコマンドができるかのチェックシートを作ってほしいです」
「でもうちの子は、私以外の人のコマンドは聞きませんよ」
「うちの子は、お手だけなら初対面の人にでもします」
「『誰に対してできるか』の項目も欲しいよね」
「でも、さすがにそこまで求めるのはやりすぎじゃない?」
と、飼い主のなかで話がどんどん進んでいきました。
オキさんも、この一連を見て、どこまで詳しくするべきかと迷ったといいます。しかし、「飼い主のみにするコマンドを載せても意味がないのでは?」というある飼い主の意見が胸にストンと落ち、上記の内容に落ち着きました。
また、散歩ページも『いぬヘルプ手帳』ならではの特徴。散歩コースや散歩の時間帯、担当者や排せつの有無、お散歩仲間を書き込めるようになっています。

「最初は、散歩の時刻とコースくらいを書けたらいいかなと思っていましたが、フォロワーさんに『いや、散歩はもっと大事ですよ!』と指摘されて(笑)1日3回違うコースを回る人や、朝夕の散歩の担当者が違う人、バギーでお散歩する人、なかには『うちの子は散歩中うんちをしないので、便秘予防のために早めに終わります』という人もいて驚きました」
そのほか、大人や子ども、ほかの犬への苦手意識を記入できる「得意・苦手傾向表」や、噛み癖や吠え癖、うんちやおしっこの自己申告ができるかなどの特性を書き込めるスペースも。散歩や預け先で飼い主以外の人やほかの犬と触れ合う機会が多いからこそ生まれたアイデアです。
「飼い主さんたちの声を聞き、ワンちゃんを飼うのは子育てに似ているところがあると思いました。たとえば、『うちの子は噛み癖があるから、引き継ぎ先で子どもを噛んでしまわないか心配』といった声があって、自分がいなくなっても、愛犬が社会の中でちゃんと生きていけるようにと考えていらっしゃるんです。なので、この手帳は飼い主さんの愛犬に対する愛だと思っています」
なお、『いぬヘルプ手帳』の後半には、前作の『ねこヘルプ手帳』と同様、体重記録グラフやワクチン・検査記録、体調不良時の記録ページ(20ページ分)なども用意されています。


家族と暮らす飼い主にも。愛犬の“指南書”として使ってほしい
『いぬヘルプ手帳』は2022年10月に販売開始。人気は口コミで広がり、「待ってました!」や「“もしも”のリスクを考えるきっかけになりました」などの声が続出しました。
「ありがたいことに、実際に手帳を買ってくれた人が、まわりの飼い主さんに直接勧めてくださっていることが多いようです。動物病院に持っていくと先生も気に入って買ってくれたという話や、近所のお散歩コミュニティに見せると「私も欲しい!」とみんなが持つようになり、流行を作ったという話も聞きます。緊急時以外でも、知人やペットホテルに預けるときに便利だという意外な声もありました」

しかし、『いぬヘルプ手帳』の認知は「まだ発展途上だ」とオキさんはいいます。
「制作や販売をしていて、ワンちゃんの飼い主さんは、猫の飼い主さんと比べると家族と一緒に住んでいる人が多い印象を受けました。一人暮らしの人よりも“もしも”のリスクが低く、そこまで手帳を必要と感じないのかもしれません」
それでも、『いぬヘルプ手帳』を持っていてほしいとオキさんは続けます。
「動物のお世話は、家族のうちの一人が中心になってやっていることが多いと思うので、いざその人が入院するといつもと違うご飯が出たり、いつもと違う散歩コースになったりしかねません。ワンちゃんからしたら、大好きな人がいなくなってただでさえ悲しいのにたまったもんじゃないですよね。そういった意味で家族がいても“指南書”のように使ってくれたらいいなと思っています」
『もしもヘルプ手帳』と売上の一部を寄付。愛護活動に込める想い
オキさんは、『いぬヘルプ手帳』をはじめとする『もしもヘルプ手帳』の売り上げの一部を公財日本動物愛護協会に寄付しています。
寄付金は、動物の殺処分を減らす活動にあてられており、2022年は計3,280冊分(164,000円)の寄付を達成しました。この寄付活動の背景には、オキさんが一緒に暮らす愛猫の存在が関わっています。
オキさんの愛猫、しらすちゃん(メス7歳)とおこめちゃん(メス6歳)は両猫とも元保護猫です。
しらすちゃんは動物愛護センターで、おこめちゃんは保護猫カフェでオキさん家族に引き取られました。なかでも、しらすちゃんはなかなか飼い主が見つからず、このまま引き取り手がいなければ殺処分されてしまう状況でした。そんなとき、オキさんは「絶対この子だ!」と運命的な出会いをしたのです。

「あの時出会えていなかったら、うちの子は今この世にいません。だから少しでも恩返しをしたいなと思っています。『もしもヘルプ手帳』が売れた数というのは、それだけ家族に大事にされている動物の数。その愛情を家族がいないワンちゃんや猫ちゃんを救うことに注げたら、みんなが幸せになれると思っています」
ほかにも、オキさんはしらすちゃんを引き取った動物愛護センターに『もしもヘルプ手帳』を年間100冊寄付。保護猫や保護犬が新しい飼い主に引き取られる時に無償で渡しています。
「自分が事故や病気でペットを飼えなくなったときのことを初めから想定して飼ってほしくて、動物と飼い主さんが“初めて出会う場所”に置いています。動物と暮らす以上、“もしも”を考えるのが当たり前の社会になってほしいです」
身近にある“もしも”のリスク。愛犬のためにできることから準備を
“もしも”なんて自分には縁がないと思う人の方が多いかもしれません。オキさんもかつてはその一人でしたが、あることをきっかけに考え方が変わったといいます。
「独身の頃、仕事から家に帰ると突然裁断ばさみのようなものを持った男が窓から侵入してきて、首を絞められたことがあるんです。幸いにも大きな声が出て犯人は逃げていきましたが、その時初めて人生の最後ってこんなにあっけなく来るんだと思いました」
事故や事件、災害のリスクは常に隣にひそむもの。どれだけ今が健康でも、明日同じように元気でいられるとは言い切れません。
「あくまでも、『もしもヘルプ手帳』はその不安を和らげるための一つのツール。ほかにもペット用の防災グッズを揃える、何かあったらワンちゃんを引き継いでもらうよう知人に伝えておくなど、できることはたくさんあります。気づいた時にできることから始めていってほしいです」
“前向きに”ペットを引き継ぐ覚悟ができる社会に
私たちにとってペットの存在はかけがえのないもの。3人の子どもがいるオキさんの家でも、しらすちゃんとおこめちゃんはまるで兄弟のように子どもたちを見守ってくれているといいます。

「ペットを育てることは子育てに似ているとよくいわれていますが、大きく違うところは、子育ては最終的に独り立ちさせることが目標であるのに対し、ペットは最後まで一緒にいて見守るというのが目標です。仮に自分が先に旅立って自分の手で幸せにすることができなかったとしても、将来その子が幸せに暮らせるように準備をすることも含めて、ペットと暮らすということだと思っています」
少子高齢化によりペットと暮らす人が増えた今、「ペットは家族の一員」という考え方は浸透してきています。しかしオキさんは、さらなる意識の改革が必要だと話します。
「ペットを引き継ぐ覚悟が、“前向きに”できる社会になってほしいと願っています。少し前に、私たちの間で『終活』や『エンディングノート』が話題になりました。それをきっかけに、後ろ向きに捉えられていた残された世界を語るということが、前向きに捉えられるようになったんです。ペットに対しても、そんな考え方が当たり前になるタイミングがすでに来ていると思います」
2024年には、自分好みにカスタマイズできるバインダー式『いぬヘルプ手帳』の発売を予定しているというオキさん。
「より楽しく書いてもらうこと」をコンセプトに、愛犬の写真を差し込めるページを作る、ペットを飼ったことがない人向けのコラムを作る、表紙の犬のイラストにバリエーションを持たせるなど企画中だそうです。なお、猫バージョンは2023年8月にクラウドファンディングで先行販売が開始されています。
ほかにも、飼い主の健康状態や安否確認を知人やコミュニティ内で共有するアプリも構想中とのこと。“もしも”のことが起きてもペットがいつまでも幸せに暮らしていけるように。その想いは、次々と新しいカタチになっていきます。

「使ってくれる飼い主さんが何を必要としているかで、作られるアイテムやサービスも変わっていくと思っています。これからも、飼い主さんから色んな意見をいただきながら新しいものを作っていきたいです」
大切な存在だからこそ考えたい“もしも”のこと。『いぬヘルプ手帳』は、オキさんをはじめ、たくさんの飼い主の”愛情”がそのままカタチになったものです。これからも、その愛がさまざまなカタチとなり、動物と暮らす社会の常識をより良いものへと変えていくでしょう。