愛犬が、お客さんを見送る看板犬に。温泉宿『民宿南部屋』の宿主が救った2匹の命

愛犬が、お客さんを見送る看板犬に。温泉宿『民宿南部屋』の宿主が救った2匹の命

くらし

2023年08月16日 公開

秘境系旅行会社に勤め、海外を飛び回ったり、インドで駐在したりしたのち、2016年4月青森県十和田市に移住。現在は看板犬2匹と『民宿南部屋』を経営している。

愛犬が、お客さんを見送る看板犬に。温泉宿『民宿南部屋』の宿主が救った2匹の命

看板犬の雑種・リュックとラブラドール(推定)・クララと暮らす田村暁さん

帰っていくお客さんの姿を寂しそうに見送る、2匹の看板犬を写したSNS投稿が「こんな姿見たら帰れない!」と犬好きで話題となりました。

青森県十和田市の温泉宿『民宿南部屋』のTwitter投稿

これは青森県十和田市奥瀬にある源泉かけ流しの小さな温泉民宿、『民宿南部屋(なんぶや)』の宿主・田村暁さんによって投稿されたものです。

田村さんは雑種の男の子「リュックさん」とラブラドール(推定)の女の子「クララさん」2匹の飼い主でもあります。

「なぜだか自分でも良く分からないのですが、普段からふたりのことを『さん』付けで呼んでいるんです(笑)」と田村さん。

推定ラブラドールの女の子・クララさん(左)と雑種の男の子・リュックさん(右)
田村さんの愛犬・クララさん(左)とリュックさん(右)

田村さんは2016年に前職を辞め、埼玉から青森へ移住し『民宿南部屋』を開業しました。保護犬のリュックさんとクララさんも、引越しや開業準備で忙しいなかで、迎えています。

前職を辞め、移住・開業という人生での一大決心のタイミングで、保護犬を迎えることとなった理由とは? また、お客さんのことが大好きな2匹とのくらしを聞いてみました。

お客さんを見送る、哀愁漂う犬の背中が話題となった温泉宿『民宿南部屋』

温泉宿の入り口から名残惜しそうにお客さんを見送る姿で一躍有名となったのが、リュックさんとクララさんです。

哀愁漂う犬の背中が話題となった温泉宿『民宿南部屋』

2匹は、もともと宿の看板犬ではありませんでした。

宿主の田村さんは、ワンちゃんが苦手なお客さんにも配慮し、最初は2匹をお客さんが使うスペースに足を踏み入れさせていなかったからです。しかし、常連のお客さんや日帰り入浴に来る地元の人たちに2匹の存在が知られ、だんだんと玄関でお客さんと交流するようになりました。

田村さんと一緒にお座りをしてお見送りをするうちに「私が何も言わなくても自然と2匹ともお座りして見送るようになったんです」と田村さんはいいます。

温泉宿『民宿南部屋』の宿主・田村さんの愛犬リュックさんとクララさん

とはいっても、2匹には「看板犬」という自覚があるのではなく、遊んでくれたり、おやつをくれるお客さんに帰らないでほしい一心がこの背中に現れているのだ、と田村さんはいいます。

「お客さんが好きすぎて、いまでもたまに一緒に帰ろうとすることがあります(笑)」

お客さんに遊んでもらうのが大好きな田村さんの愛犬・リュックさんとクララさん
お客さんに遊んでもらうのが大好きな田村さんの愛犬・リュックさんとクララさん

『民宿南部屋』は田村さんが一人で切り盛りしており、基本的にリュックさんとクララさんは宿裏の住居スペースにいるため、必ず2匹に会えるわけではありません。しかし最近では、2匹に会いたいがために訪れるお客さんも増えたのだそう。

リュックさんとクララさんに触れ合うことで、亡くなった愛犬との思い出を涙ながらに話すお客さんもいるといいます。

「ピッタリ蓋をしていた心の一部が、旅先でふたりを撫でることによって解放されるみたいです。感情があふれでたように思い出話をされるお客さんが多いです」

田村さんもかつて愛犬を亡くした経験があります。

「亡き愛犬を想う気持ちは痛いほどわかりますし、お客さんの気持ちの整理にふたりがお役に立てるのであれば、こんなにありがたいことはないですよ」

最初は少し緊張した面持ちでやってきたお客さんも、2匹と遊んだり撫でたりしているうちに、表情が柔らかくなっていきます。2匹がいるおかげで、お客さんの本音がぽろっとこぼれたり、素顔を垣間見ることができる。田村さんとお客さんが話をし、心を通わせるきっかけになっているようです。

先代犬・ネロくんとの別れ「もう二度とペットは飼えない」

20年近く前、田村さんは実家で黒いラブラドールレトリーバーの「ネロくん」を飼っていました。田村さんが大学生の時に、お兄さんが知り合いを通じてブリーダーから受け取ってきた子です。

田村さんの愛犬ネロくん(ラブラドールレトリーバー)
田村さんの愛犬・ネロくん(ラブラドールレトリーバー)

田村さんの両親は当初、犬を飼うことに反対していました。犬が苦手だからではなく、田村さんのお母さんが昔愛犬を交通事故で亡くしており、それがトラウマとなっているからでした。

そんな両親の不安もありながら『もう大学生になったからいいだろう』とお兄さんが受け取ってきたのが「ネロくん」です。最初は『ネロくんがいていいのは、田村さん兄弟の部屋だけ』というルールでしたが、迎えて3日が経った頃には、家の中を自由に走り回っていたといいます。

「やんちゃ盛りの子犬が一部屋にとどまることは無理ですよね(笑)。もともと母も犬が大好きでしたから、なし崩し的に我が家に受け入れられていきました」

田村さんの愛犬ネロくん(ラブラドールレトリーバー)

お兄さんは転勤が決まり早々に実家を離れてしまったため、実質的には田村さんが一番面倒をみることになりました。とても楽しい愛犬との暮らしでしたが、ネロくんは内臓を悪くしてしまい、11歳で生涯を終えます。

最後の半年間、田村さんはほとんど付きっきりでネロくんの看病をしていました。目の前で一生懸命、命をまっとうしようとするネロくんを見送ることは、田村さんにとって、とても大切な経験になったといいます。

「私にとって弟のような存在だったネロくん。やはり、突然の病と別れにはショックがありましたね。お別れの覚悟はしていましたが、どこかでまだもう少し長く一緒に居られるモノだと勝手に思い込んでいた部分もあったのでしょう.......。もう二度とペットは飼えないかなと思いました」

ネロくんとお別れしてから約一年程、田村さんはペットロス状態になり、とても辛い日々を過ごしたそうです。

「保健所にいる犬の命を救いたい」殺処分直前に引き取ったリュック

田村さんは、ネロくんの友達を通して、保護犬や保護活動にも関心を持っていました。

「もしもまた犬を飼うことがあったら、1匹でもいいから保健所にいる子の命を救いたい。死に直面したワンちゃんを救えば、お別れの日までの時間が長かろうと短かろうと、全部が幸せなボーナスステージなんだ! と思えるかなと考えたんです」

ネロくんとの辛い別れを経験したからこそ、共に生きられる時間を前向きに捉える考え方に至りました。

「いま振り返ると、自分本位で浅はかな考えだったなと思います。でも、少しでも気楽に考えないと命をもう一度背負う勇気が出ませんでした。それだけ命は重要で尊いものだと、ネロくんが教えてくれたんです」

いざ、青森へ移住し宿を開業するという人生の節目を迎えるに当たり、田村さんはワンちゃんを探し始めました。

条件は、2つだけ。山奥にある『民宿南部屋』でのクマ避けとしてワンちゃんの力を借りたいと思い、「収容期間の短い子」、かつ「中型犬以上の雄犬」を希望します。

忙しい仕事の合間にインターネットで探していると、九州の保健所で収容期限が翌日に迫ったワンちゃんを見つけました。

問い合わせてみると、幸いにもすでにその子の引き取り手は決まっていました。しかし、その子とは別に、手違いで引き取り手の募集がかけられず、翌日には殺処分されてしまう可能性のある子がいるという回答が届きます。

「何とか助けたいのでその子を替わりに引き取ってくれませんか?」

その子は写真の掲載もなく、どんな状態のどんな性格の子であるかもわからない。得られたのは「1歳ぐらいの雑種の雄」という情報のみです。

田村さんも一瞬戸惑いましたが「翌日には殺処分されてしまう子を見放す選択肢はない」と感じ、例えどんな子が来たとしても生涯寄り添うと覚悟を決めたのです。

数日後、リュックさんは空輸で田村さんの元にやってきました。

空輸されてきたリュックさんと羽田空港で初対面を果たす
空輸されてきたリュックさんと羽田空港で初対面を果たした田村さん

体はいたって健康で、噛み癖や凶暴性もなく大人しい子でした。聞き分けが良く、しつけに手を焼くこともなかったといいます。

「どうして引き取り手がいなかったんだろう? と思うほど、リュックさんは優しい子です。顔のいかつさが災いしたのでしょうか(笑)」

元保護犬で雑種犬のリュックさん

どんな経験をして保健所にやってきたのかはわかりませんが、リュックさんは最初は「クゥン」とも「ピィ」とも鳴くことがありませんでした。次第に、心を開いてくれるようになり、いまでは感情を豊かに表すようになったといいます。

一度宿の近くに接近してきたクマにもしっかりと吠え、期待していたクマよけとしての役割もたくましく果たしてくれているようです。

ブリーダーの飼育放棄? 山の中で餓死寸前だったクララ

もう1匹の愛犬・クララさん(推定ラブラドール)とは、宿を開業した5ヶ月後に出会います。

田村さんの愛犬愛犬・クララさん(推定ラブラドール)

田村さんが青森空港へ車で移動中、国道脇のガードレールの下からひょっこり覗くワンちゃんと目が合った気がしたのです。

本当に一瞬のことでしたが田村さんは気になり、数メートル先の路側駐車帯で車をUターンさせました。戻って確認してみたところ、道路脇の茂みの中に1匹のラブラドールが横たわっていたのです。

「国道とはいえ、細い山道です。路側帯がなければUターンして確認することもできなかったはずです。これは、私とクララさんが出会う運だったのかなと.......」

ブリーダーの飼育放棄? 山の中で餓死寸前だった愛犬クララ
保護した時のクララさん

骨と皮しかないようなガリガリの状態で見つかったクララさんは、体中ウンチとオシッコまみれで悪臭がし、とても酷い状態でした。田村さんはすぐに車に乗せホームセンターへ駆け込み、水や犬用の離乳食、ソフトタイプのドッグフードを買って食べさせました。

「歩く元気はないものの、尻尾を振る体力はまだあったようです。尻尾を降りながらガツガツと夢中でご飯を食べるクララさんの姿は一生忘れられません」

その後、すぐ近くの交番に拾得物の届け出をし、3ヶ月間落とし主が現れなければ、田村さんが責任持って飼うことを決めました。

翌日にお医者さんに診てもらったところ、幸いにも飢えからくる栄養失調と体力の低下以外の病気や怪我はなく、『ただご飯をしっかり食べさせて様子を見て下さい』とのことでした。最初は立ち上がることもできないほど体力が低下していましたが、栄養のあるご飯とお水をひたすら食べさせ2日経つと、クララさんが急に立ち上がったのです。

「立った!! と声をあげて喜びました。そう、クララが立った!!と。その日から、この子の名前はクララになりました(笑)」

田村さんは宿の仕事をしながら、できる限りクララさんの様子を見るよう努めました。数ヶ月一緒にいると、「当たり前だけど情が湧いてきました」

3ヶ月飼い主が見つかるのを待ってはいましたが、田村さんの心では家族として迎える決心がついていたのだそう。

「目の前に消え掛かっている命を問答無用に見せられたら、見捨てるなんてできません。選択の余地もなく、ただ助けようと体が動いていました。あとから、引き受けたものの重さを感じるわけですが、助けた以上は言い訳せずに責任を持とうと腹を括りました」

温泉宿『民宿南部屋』の宿主・田村さんの愛犬リュックさんとクララさん

お互い知らないことを教え合う。愛犬の仲の良さに救われる

温泉宿の開業と同時に2匹のワンちゃんを急に迎えることとなった田村さん。

「ただでさえ開業準備で忙しいのに、そのタイミングでガリガリのクララさんにも出会いました。犬を飼うことに慎重になりすぎてしまう自分の性格を思うと、逆に忙しすぎたからこそ、考える間もなく覚悟を決められたのかもしれません(笑)」

田村さんも宿の経営があるため、つきっきりで面倒を見れるわけではありません。そんな時に支えとなったのが、「ふたりの相性がとても良かったこと」です。

愛犬・リュックさんとクララさんの仲の良さに救われる

迎えた当初は、ちょっぴり人見知りで感情表現の乏しかったリュックさんですが、尻尾をブンブン振って喜びを表すクララさんと一緒に過ごすことで、リュックさんも尻尾を振ることができるようになりました。

一方、久しく外を歩いていなかったからなのか、最初はぎこちない歩き方をしていたクララさん。毎日の散歩でリュックさんの歩く姿を見て学んだのか、少しずつ自然な歩き方ができるようになりました。

「ふたりの支え合いには本当に助けられます。私が忙しいときは、お互いちょっかいを出し合って勝手に遊んでくれますから。もしリュックさんだけだったら、あんなに感情表現できる子にはなっていなかったかもしれませんね」

お互いが大好きで、甘えん坊な性格の愛犬たち

2匹はお互いが大好きで、甘えん坊な性格です。

リュックさんは「撫でて〜」と積極的にお客さんにすり寄っていきます。クララさんは、田村さんが予約メールの対応でスマホを触っていると、嫉妬して必ずスマホを叩きに落としにくるそうです。

「予約メールの返信が全然進まないんです(笑)まあ、これは幸せな悩みですけどね」

責任・覚悟・犠牲・お金の負担に勝る、愛犬たちがくれる幸せ

温泉宿を営む前の田村さんは、旅行系の会社で毎日時間を問わず働く生活をしていました。しかし、自分の夢に挑戦する上司の姿を見て「やりたいことがあるなら、時期を逃してはいけない」と思い直し、退職と移住、開業にまで踏み切ります。

いまも忙しいことには変わりはありませんが、青森の山奥でのんびり2匹と散歩できる毎日は、田村さんが理想としていたくらしのようです。

責任・覚悟・犠牲・お金の負担に勝る、愛犬たちがくれる幸せ

「少人数でやっている小さな宿なので、一日に数人~数組しか予約を受けられません。つい切羽詰まってしまう瞬間もありますが、ワンちゃんはこちらの精神状態を感じ取ってくれますからね。落ち込んでいたら寄り添ってくれたり、そっとしておいてくれたりします。ふたりの散歩があるから、毎日欠かさず外に出て自然の中でリフレッシュできますし。私一人だったら、行き詰まっていたかもしれませんね」

人生の一大決心と同時に出会ったリュックさんとクララさん。

「ふたりは僕にとっては、家族以外の何者でもありません。自分の体調不良よりも、よっぽどリュックさんやクララさんに何かあったほうが重大だし心配です(笑)。うまく言葉にできないけど、そういう存在です」

リュックさんとクララさんは田村さんの家族

リュックさんとクララさんは家族であり、「ふたりがいない生活はもう考えられない」といいます。

保護犬に限らず、命を引き受けることは大きな責任と覚悟、犠牲そしてお金が必要です。
「けれども、彼らは我々にそれを補って余りある程の笑いや楽しみ、充実、彩り、癒し、安らぎなどを与えてくれます」

命が消える直前に田村さんの手によって救われた2匹は、今日も大好きなお客さんの背中を温かく、そしてちょっぴり寂しそうに見送っていることでしょう。

『民宿南部屋』の名看板犬のリュックさんとクララさん

※『民宿南部屋』をご予約の際は、Twitter上で案内している宿の個性や注意点等を、必ずお読みになってからお問い合わせくださいませ。