トリミングは我慢の時間? 犬のストレスを減らす『ハズバンダリートレーニング』とは

トリミングは我慢の時間? 犬のストレスを減らす『ハズバンダリートレーニング』とは

お手入れ

2023年08月18日 公開

2020年、トータルドッグサービス『nap』をオープン。同年、日本唯一のハズバンダリートレーニングの養成学校『ADGS』を犬業界で活躍する講師陣とともに開校。

トリミングは我慢の時間? 犬のストレスを減らす『ハズバンダリートレーニング』とは

日本初! ハズバンダリートレーニング専門のペットサロンを立ち上げた高橋礼美さん

「ハズバンダリートレーニング」を知っていますか? 動物に協力してもらいながらトリミングや医療行為を行う手法のことです。イルカなどの海獣類から始まり、現在では主に動物園でライオンなどの猛獣やキリンなどの巨大草食動物への医療行為に採用されています。

「人間に最も身近な犬にこそ、ハズバンダリートレーニングを取り入れるべき」と考えたのが、静岡県内で犬のトリミングや幼稚園などを運営する高橋礼美さん。

日本初! ハズバンダリートレーニング専門のペットサロンを立ち上げた高橋礼美さん
ハズバンダリートレーニングの養成学校『ADGS』理事長・高橋礼美さん

現在は、犬へのハズバンダリートレーニングの普及と専門家の育成に取り組んでいます。

動物にも選択肢を与える『ハズバンダリートレーニング』とは? 高橋さんに、ハズバンダリートレーニングを取り入れることで見えてくる、人と犬との暮らしについてうかがいました。

犬の恐怖心を軽減するための『ハズバンダリートレーニング』

トリミングサロンや動物病院で、犬たちは常に「恐怖」と戦っています。

「もしも自分で扉を開け閉めできないエレベーターがあったとしたら、あなたは喜んで乗りますか?」

この質問に「イエス」と答える人は、まずいないでしょう。1㎡の狭い鉄の箱に無理やり乗せられたら、心拍数は上昇し、冷や汗がひっきりなしに流れます。「出してくれ!」と大声で叫び、固く閉じた扉を叩き続けるかもしれません。

犬たちが病院やサロンで経験しているのはまさにこの状況と同じだと、高橋さんは言います。

そして、この状況を変え、犬たちが安心して治療やトリミングに協力してくれるようにするのが「ハズバンダリートレーニング」です。

たとえば動物園でパンダの採血をする場合、パンダ自らが採血用の檻に移動し、採血できる位置に座ります。そして檻の隙間から腕を出して手のひらを上に向け、採血が終わるまでじっと動かずにいる……。

このように、動物が健康管理に必要な動作を自発的にしてくれるようトレーニングすることを「ハズバンダリートレーニング」といいます。ハズバンダリートレーニングを行うと、動物のストレスを軽減しながら医療行為やお世話をすることができるのです。

「こんなに素晴らしいトレーニング方法が、なぜ最も身近な動物である犬には浸透しないと思いますか? それは、『人間が困らないから』なんです。犬はとても我慢強い動物です。だから、人間が無理やり何かをしても、ギリギリまで我慢し、私たちに牙を剥く子はとても少ないでしょう。また、小型犬であれば、もし牙を剥いたとしても人間が容易に力で押さえつけることが出来てしまいますよね」

犬にとってトリミングは、強制的に高いところに乗せられ、水をかけられたり、刃物を顔に押し付けられたりする怖い時間です。でも犬が我慢強い動物で、攻撃せずにじっと耐えてくれているからこそ、安全に成立しています。

高橋さんの経営するトータルドッグサービス『nap』には、犬が恐怖を感じないようにするためのよい工夫があちこちに見られます。犬が自由に出入りできるように、足ふき場のように低いシャンプー台が設けられ、犬が自分で昇り降りできるよう、トリミング台に階段をつけるなど、全てが「犬目線」の設計です。

高橋さんの経営するドッグトータルケアサロンnap
高橋さんが経営する、トータルドッグサービス『nap』
トリミングサロンnapのシャンプー台
シャンプー台は低く作られている

2時間で愛犬を可愛く仕上げる従来のシステムでは、犬の意思に配慮したトリミングはできません。ここでは、まずは犬に同意を求めるところから始めます。そこから何回も時間をかけてトリミングに慣らしていくのです。

「いきなり爪を切られるのが怖いなら、まずは脚を触ることから始めます。そこから小さな階段を少しずつ上るように、犬に同意を求めながら進めていけば、最後は喜んで爪を切らせてくれます。大事なのは犬に選択肢を与えること。嫌だったら逃げてもいいって教えてあげるんです」

犬にストレスを与えないように作られている、トリミングサロンnap

「飼い主は喜んでいるけど、犬は?」トリマー時代に感じた疑問

小さな頃から動物が好きで、特に犬が大好きだった高橋さん。進路に迷ったとき、犬に関する仕事だったら続けられそうだと思い、トリマーの道に進みました。

「最初の5年間は自分のトリミング技術を高めることに一生懸命でした。より綺麗に、より可愛らしく整えることを目指していました。でも、ある程度技術が身についたとき、犬の様子が気になり始めたんです」

綺麗にトリミングをすると、飼い主さんは喜んでくれます。けれど、トリミングを終えて引き渡すころには、犬はぐったりと疲れ切っている状態。それもそのはず、トリミング中の犬は震えたり、怯えたり、ときには限界を超えて噛みついてくることもあったのです。

「もともと犬が大好きでトリマーという仕事を選んだので、苦しむ犬を見るのがだんだん辛くなってきました。その頃には自分のお店を持って別のスタッフもいてくれたので、トリミングをスタッフにある程度お任せして、自分は犬との関わり方を学び直すためにドッグトレーニングの勉強をするようになりました」

2005年トリマーとして独立し、自分のお店をもった高橋さん
2005年トリマーとして独立し、自分のお店をもった高橋さん

トレーニングを学び始めて、高橋さんは心理学の一つである「行動分析学」と動物のストレスを軽減することを目的とした「ハズバンダリートレーニング」に出会います。

トリマーさんはみんなもともと犬が大好きでこの仕事に就いています。でも、犬が好きだからこそ、この仕事に疑問を感じてしまう方も少なくありません。

「もしこの技術をトリミングに活用できたら、トリマーが一生続けたい職業になるんじゃないかって、確信しました。ハズバンダリートレーニングをトリミングに活かせば、犬も幸せ、飼い主も幸せ、そしてトリマー自身も幸せになれると思ったんです」

トリミングでもハズバンダリートレーニングを取り入れている
トリミングサロンのグルーミング行為にも、ハズバンダリートレーニングを取り入れている

被災犬・ロー君と出会い、「行動分析学」を学び始めた

人生が変わる瞬間には、いつも犬がそばにいました。トリマーだった高橋さんをドックトレーニングに導いたのは、東北大震災の被災犬、「ロー」君です。

東北大震災の被災犬だった、高橋さんの愛犬・ロー君
東北大震災の被災犬だった、高橋さんの愛犬・ロー君

「ローはずっとシェルターのなかにいたから、閉所恐怖症になっていました。ご飯も食べず、がりがりに痩せた状態でうちにやってきたんです」

とにかく扉の付いた空間に入ることを拒むロー君。最初はおやつを用いたオーソドックスなトレーニングを試していた高橋さんですが、ロー君にとっては全く役に立たないことを知ります。

「ステーキを焼いて目の前に出しても、『怖い』の方が勝ってしまう。ローにはおやつで釣るトレーニングは全く効きませんでした。一番困ったのが散歩です。一度連れ出すと、家に絶対帰ろうとしない。家には扉がついてるので、扉の中に入るのが怖いんです。かといって、ローは30㎏近くある大型犬なので、抱えて帰るわけにもいきません。毎朝、毎晩、ローを力任せに引きずって家に帰っていました。自分が犬を虐待しているようで、本当に辛い日々でした」

おやつを使ったトレーニングが全く効かない。困り果てた高橋さんは、あらゆる方法を試す中で、行動分析学と出会います。

高橋さんと愛犬・ロー君

行動分析学とは、行動の法則を明らかにして、そこから問題行動を改善していく学問です。人間の困った行動や悪癖の改善のために使われてきましたが、近年ではドックトレーニングにも取り入れられるようになりました。

「行動分析学を学ぶうちに、私自身のローへの向き合い方が変わりました。1番の変化はローのとる行動を人間側から見た困った行動として捉えるのではなく、その意味や理由を分析することが出来るようになったことです。おかげで、お互いが幸せになるためのトレーニングをすることが可能になりました」

ハズバンダリートレーニングの有効性を証明してくれた、噛みつき犬・ステン君

高橋さんに行動分析学を学ばせてくれたのは、保護犬のロー君。そしてハズバンダリートレーニングが有効だと教えてくれたのは、もう1匹の保護犬・ステン君でした。

元咬傷犬だった、高橋さんのもう1匹の愛犬・ステン君
元咬傷犬だった、高橋さんのもう1匹の愛犬・ステン君

「ステンはとにかく噛みつきがひどくて。遠くに人を見つけると走って噛みつきに行っちゃうくらいだったんです。カットもシャンプーももちろんできないし、もう手が付けられないってことで、私が引き取ることになりました」

ちょうどハズバンダリートレーニングを知ったばかりだった高橋さん。ステン君に実践することでその効果を確認したいと、トレーニングを開始しました。

トレーニングといっても、最初はただ一緒の空間で、いっしょに時間を過ごすだけから始めます。環境を整え、時間をかけてストレスケアをしていくことを優先したそうです。

そして、小さな階段を少しずつ昇るようにゆっくりと、人が近づくことや触れることに慣れさせました。その結果、今では別の犬のように人懐っこくなったといいます。

ステン君とのトレーニングがきっかけで、高橋さんはハズバンダリートレーニングの可能性を確信しました。

「実は犬が人を噛むのは、人が犬に噛むことを教えているからなんです」

高橋さんによると、トリミング現場では犬は常に以下のように葛藤しているといいます。

  1. 足先を触られたので、犬は足を引いて「拒否」を伝えた
  2. 一瞬だけ解放された
  3. 今度は足を強く固定された
  4. 空噛みして「NO」を伝えた
  5. 一瞬だけ解放された
  6. また押さえつけられた
  7. 今度は軽く噛みついて「拒絶」した
  8. 一瞬だけ解放された
  9. 噛まれないように強く押さえつけられた
  10. 今度は力いっぱい噛みついた
  11. これをトリミングのたびに繰り返した

 

こうして徐々に「拒否」の表現が強くなり、はじめは足を引くという行動で「嫌」を伝えてくれていた犬が、簡単に噛み犬になってしまいます。つまり、人間が犬に対して、嫌な時には噛みつくのが効果的だということを教えてしまっているのです。

「犬は優しいから、限界まで我慢してくれます。それに日本には小型犬が多いから、人間の方が力で勝ってしまいますよね。どんなに抵抗しても逃げられないとわかると、犬はどうなると思いますか? 全てを諦めて自発的な行動を全くとらなくなるんです。これを『学習性無力感』といいます。噛み犬よりもさらにひどい状況です」

「学習性無力感」は、一種のうつ状態で、たとえ回避できる状況にあっても「逃げる」という行動がとれなくなります。しかしその経緯を知らないトレーナー、トリマー、飼い主は「いい子」と言って誉めてしまいます。

この状況は、果たして犬にとって、本当に幸せなのでしょうか。高橋さんは、犬の幸せを考え、犬社会を変えるために、このハズバンダリトレーニングの啓蒙を続けます。

「動物愛護」から「動物福祉」。変えるべきは犬ではなく人の意識

「日本はいま、『動物愛護』から『動物福祉』へ変わっていく過渡期にあると思います。『動物愛護』とは、人間目線で「こうしてあげたい」と思うことを犬にすること。対して『動物福祉』とは、犬自身が本当に幸せかを考えることです。

人間の子どもに例えると、親が子どものためを思って東大に入れるよう勉強させるのが『愛護』、その子の幸せを優先させるのが『福祉』です。子どもには子どもの幸せがあるように、犬にも犬としての幸せがあります」

「動物福祉」の考え方を日本に根付かせるためには、犬の専門家を育て、増やしていかなければならないと考える高橋さん。

「犬と飼い主が共に笑って暮らせる社会」を目指して、自らドッグトータルサロンを運営する傍ら、ドッグトレーナー・グルーマーの養成学校ADGSの学長として、正しい知識と技術を持ち、日本の動物福祉向上を担う専門家育成に取り組んでいます。

ハズバンダリートレーニングや科学に基づいたトレーニング方法、グルーミング方法が学べるドッグトレーナー・グルーマー養成学校『ADGS』
ハズバンダリートレーニングや科学に基づいたトレーニング方法、グルーミング方法が学べるドッグトレーナー・グルーマー養成学校『ADGS』

「犬の専門家が増えて『動物福祉』の考え方が日本にも広がれば、飼い主さんの意識も変わるでしょう。そして、飼い主さんの意識が変われば、犬たちはもっと幸せになり、犬との暮らしもハッピーになります。変えるべきは犬ではなく、人間の意識なんです」

犬は人間にとって唯一無二の相棒。まずは「犬」を理解すること

高橋さんの愛犬、ロー君とステン君
高橋さんの愛犬、ロー君とステン君

「犬は、人間にとって唯一無二の存在なんです。人間の赤ちゃんとお母さんが見つめ合うと、幸せホルモンと呼ばれる『オキシトシン』が放出されます。それと全く同じ現象が、飼い主と犬の間でも起こるんです。そんな動物は、犬だけですよ!」

まさに、飼い主にとって愛犬は自分の子どもと同じように大切な存在。そして、愛犬を幸せにするためには、社会全体が変わらなければなりません。

「たとえば、飼い主さんが自分の犬にハズバンダリートレーニングをして、トリミングでも病院でも、喜んで受けてくれるように育てたいと思っても、周囲に協力者がいなければ難しいでしょう。正しい知識を学んだ犬の専門家が、もっともっと必要なんです」

犬との幸せな暮らしのためには、人間側が気づき、変わるべきだと高橋さんは指摘します。そのために飼い主としてできるのは、「もっと犬を知ること」です。

「犬ともっと会話してみてください。それはたとえば、服を着せたり抱っこしたりといった擬人化ではなく、犬と言葉を超えたコミュニケーションをとって、相手(犬)の立場で考えてほしい。そうすれば、『犬育て』はずっと楽しくなるでしょう」